凡收藏「復刻武將 根本 博」將隨刀附上由角川文庫發行的「この命、義に捧ぐ 台湾を救った陸軍中将根本博の奇跡 」名將傳記一本。

昭和名將 根本 博(1891年6月6日-1966年5月24日)出生於日本福島縣,大日本帝國陸軍及台灣中華民國陸軍中將,獲受勲一等·功三級。日本陸軍士官學校23期、日本陸軍大學校34期畢業。

名將 根本 博 在今日本國福島縣岩瀨郡仁井田村(今須賀川市)出生。家族務農為業,父親在縣廳工作。兄長嘉瑞為村會議員。1904年進入仙台陸軍地方幼年學校就學。中央幼年學校之後進修於日本陸軍士官學校,作為第23期生畢業,於日本陸軍大學校畢業後回歸原隊,在日本帝國陸軍中樞服勤。

1931年12月,犬養毅內閣的陸軍大臣荒木貞夫中將,把沉默寡言的根本博中佐稱為「晝行燈」,比擬為忠臣藏裡的大石內藏助良雄。

根本博於1944年11月就任為駐蒙軍司令。隔年8月「日蘇戰爭」爆發,蘇聯紅色匪軍開始進攻滿州國。該月15號日本投降後,蘇聯紅軍居然繼續進攻日軍,一代猛將 根本博 為了保護人民百姓、於是命令日軍守備隊還擊。在幾度嘗試與蘇共軍進行停火談判的過程中,面對蘇共軍隊進行白刃刺刀對戰並同時抵擋中國共匪的八路軍的進攻。8月19日與蘇軍展開了長達三天三夜的血戰。

面對數十倍於自己的敵人仍毫無畏懼之心、視死如歸、勇猛作戰並殲滅無數敵人,令蘇聯共黨匪軍聞其名而喪膽之!

日軍自8月21日且戰且退,在其領導之下全員無損退回關內。8月20日自內蒙古平安的救援四萬名日本僑民,在三天三夜的跋涉後到達天津,並搭上歸國船隻回到日本國內。

1946年8月,作為最高負責人的根本博,於滯留在中國的日本人回國,及華北方面軍的35萬士兵復員結束後,搭乘最後的歸國船隻回到日本。

在復員並歸國後,回到了位於東京鶴川的家中。鑒於第二次國共內戰大致上已決定國民黨之失去中國政權,在1949年1月蔣介石辭任總統一職後,名將 根本 博 為回報蔣介石以德報怨的恩情(無條件讓日本國民4萬人及35萬將士歸國、支持盟軍維持天皇君主制不變),加上當年在南京擔任使館武官時即與蔣介石為舊識,根本博典當了一些細軟,賣掉自己的財物做為渡航費,另外也找上了原上海貿易商的明石元長及台灣籍義士仁俠李鉎源先生的請求與協助,秘密偷渡至臺灣,沿途九死一生,遇到船難仍然冒死來台灣捨命報恩。

於7月10日到達基隆,但因當地憲兵與警員並不知情,秘密偷渡的幾人皆被禁錮。隨後,在根本博下獄的報告傳達到台灣的國軍上層後,8月中旬,由湯恩伯將軍居中協調與蔣介石會面。

同年8月5日美國左派政府因為受中國共產黨的欺騙,於是向國民黨表明將中止對其軍事援助,於是蔣介石便接受了 根本博 的協助。

名將 根本 博最有名的戰役就是「金門決戰」古寧頭大捷!

根本博做為湯恩伯的第5軍管區司令官顧問,任命為中將,並以日文稱他為「顧問閣下」,言聽計從。

由於中華民國的國軍在中國大陸戰場連連失利,根本博向湯恩伯建議,將國軍撤退到舟山群島、一江山、大陳島、金門與馬祖,並且仿效在硫磺島戰役中在金門挖了許多的坑道作為防禦工事,拉長與共匪赤軍的戰線,保障台灣和澎湖,並伺機反攻,此舉獲得蔣中正的肯定。

同年10月1日,中國共產匪徒成立中華人民共和國之暴力政權。

不久,廈門失陷,台灣國軍演變成為必須在金門島決戰,根本博也著手策劃塹壕戰。10月24日,根本博在金門島指揮古寧頭戰役,使中國共匪解放軍陷入其設計的「布袋戰術」,並利用坦克射擊共匪解放軍的船隻切斷匪軍的退路,成功的殲滅了全部登陸的中國共匪解放軍,奇蹟似的死守了金門!根本博因此獲得「戰神」的封號!

金門大捷後,名將根本博並且參與國軍教育訓練的活動。

1952年根本博離台前夕,蔣中正為了表達感謝,特地將自己珍藏的一對特製花瓶拆開,將其中一支贈送給根本博。

此名貴花瓶原先一共有六支(三對),是蔣中正在1947年時,特地請江西景德鎮名家燒製,其中一對送給英國伊莉莎白女王做為結婚賀禮,另一對送給日本昭和天皇,蔣介石自己留了一對。由此可見蔣介石對根本 博的感激之情!

2009年10月舉辦的古寧頭戰役戰死者追悼會上,竭盡全力協助根本博的出國的明石元長的兒子明石元紹,及負責根本博翻譯並與他長年一起行動的吉村是二的兒子吉村勝行,及其他日本軍事顧問團的家族皆受台灣中華民國政府所邀請,並與總統會面。

另外,在明石元紹與吉村勝行回國前,台灣中華民國國防部常務次長黃奕炳中將在媒體前以「國防部代表」聲明:「當年古寧頭戰役,感謝日本友人協助,可以說是雪中送炭」

至此,台灣中華民國政府才算是正式公開古寧頭大捷戰役參與的日本軍人及協助的重大機密。

根本博 打刀拵

本作品為日本濃州堂以萬分虔敬之心,不容青史盡成灰的態度,隆重奉上之復刻武將系列之 根本 博 寶刀、以資紀念!亦於刀莖的表面與反面上以手工彫入「取義捨身吾所尊·偲 根本 博 濃州堂」的珍貴銘文,極具收藏價值!

根本 博日語原文介紹

昭和の名将である根本 博(ねもと ひろし、1891年6月6日―1966年5月24日)は、日本の福島県出身で、大日本帝国陸軍および台湾の中華民国陸軍の中将であり、勲三等瑞宝章を受章した。陸軍士官学校23期、陸軍士官学校第34期を卒業した。

名将の根本博は福島県岩瀬郡仁井田村(現須賀川市)出身。実家は農家であるが、実父は県庁に勤務していた。また、実兄の嘉瑞は村会議員も務めた。1904年(明治37年)仙台陸軍地方幼年学校入学。中央幼年学校を経て、1911年(明治44年)陸軍士官学校卒業(23期)。陸大卒業後、原隊復帰を経て、陸軍中央等において主に支那畑を歩む。1931年12月、犬養毅内閣の陸相となった荒木貞夫中将は、寡黙な根本中佐を、「昼行灯」と称して、忠臣蔵の大石良雄に擬していたという。

1944年(昭和19年)11月、駐蒙軍司令官に就任。翌年8月に日ソ戦争が開始し、ソビエト軍が満州に侵攻。8月15日の日本降伏後も止まらず、ソビエト軍は日本人にまた攻撃していた。必死に耐える根本博は国民を守るため、日本軍守備隊に対して命令を下した。途中幾度と停戦交渉を試みるが攻撃を止まないソビエト軍に対し、何度も突撃攻撃を繰り返しソビエト軍の攻撃を食い止めながらすさまじい白兵戦を繰り広げた。更に八路軍からの攻撃にも必死に耐えた。8月19日から始まったソビエト軍との戦闘はおよそ三日三晩続いた。何十倍もの敵を前にしても臆することなく、勇気を持って必死に戦い、数え切れないほどの敵を消滅した。ソ連共産主義の賊軍は、彼の名前だけ聞いたら恐怖を感じる!

8月21日、日本軍は戦場から撤退し、根本博の指揮のもと無事にグアムへ帰還した。8月20日に根本博は内モンゴルから4万人の日本人を救出し、3泊3日の苦しい長旅を経って天津に到着し、引揚船で日本へ帰国した。

1946年8月、中国残留日本人の帰国と華北戦線35万人の復員後、最高責任者の根本博は最後の引揚船で日本に帰国した。復員して日本に帰国した後、東京・鶴川の自宅に戻った。国民党と共産党の第二次内戦で国民党が中国の政権を失うことがほぼ決定したため、1949年1月に蒋介石が総統を辞任した後、名将の根本博が蒋介石の厚意(日本人4万人と兵士35万人の無条件帰国を認め、連合軍を支援して天皇制を維持した)に甘え、それに南京の軍属だった頃から蒋介石と知り合っていたので、自分の持ち物を質に入れてフェリー代にした。また、元上海貿易業者の明石元長と台湾の義士である李鉎源に協力を仰ぎ、台湾に密航した。途中で難破して命を落とすまで台湾に来て恩返しをした。

7月10日、根本博らは基隆に到着したが、現地の憲兵隊や警察官が知らなかったから、彼らはすべて拘束された。根本博が収監されたことを台湾の国民党軍上層部に報告した後、8月中旬に湯恩伯将軍は根本博と蒋介石との会談を準備した。
同年8月5日、アメリカ左派政権が中国共産党に騙され、国民党に軍事援助の停止を告げたため、蒋介石は根本博からの援助を受け入れた。

名将根本博の最も有名な勝利した戦争は「金門の古寧頭戦い」だ!

根本博は第5軍管区司令官顧問、中将に任命された。湯恩伯は根本博を「顧問閣下」と呼び礼遇して、その命令に従った。

中華民国国軍が中国大陸で連戦連敗していたため、根本博は湯恩伯に舟山島、一江山、大陳島、金門、馬祖に撤退し、金門には硫黄島の戦いに倣って多くの要塞を掘り、共産紅軍との戦線を長く伸ばして台湾と澎湖を保護し、反撃の機をうかがうことを提案することは、蒋中正の承認を得たのである。

同年10月1日、中国共産党は中華人民共和国という暴力的な政権を成立した。ほどなく国府軍は厦門を失陥、金門島での決戦が迫る中、根本博は塹壕戦の指導を行った。

そして10月24日、金門島における古寧頭戦役を指揮、上陸してきた中国人民解放軍を「袋小路戦術」に引っかかり、戦車で退路を断ち、上陸した中国共産党解放軍をすべて潰滅し、奇跡的に同島を死守した。 その後、根本博は「戦神」と呼ばれてきた。

古寧頭戦役の勝利の後、名将の根本博は国軍の教育・訓練活動にも参加した。
1952年、蒋介石は感謝の気持ちを伝えるため、所蔵していた一対の特別な花瓶の1つを、台湾から離れる根本博に贈った。

この花瓶はもともと6つ(3対)あった。それは1947年に蒋中正が江西省景徳鎮の有名な芸術家に特別に依頼して作らせたものである。一対をイギリスのエリザベス女王に結婚祝いとして贈り、もう一対は日本の昭和天皇に贈り、そして蒋介石が自分に他の一対を所蔵した。蒋介石が根本博に感謝していることをこのことによって完全に表せている。

2009年10月に行われた「古寧頭戦役戦没者慰霊祭」に根本博の出国に尽力した明石元長の息子・明石元紹や、根本博の通訳として長年行動を共にし、古寧頭の戦いにも同行した吉村是二の息子・吉村勝行、その他日本人軍事顧問団の家族が中華民国(台湾)政府に招待され、中華民国総統と会見した。

また、明石元紹と吉村勝行の帰国の際、中華民国国防部常務次長の黄奕炳中将は報道陣の前で「国防部を代表して、当時の古寧頭戦役における日本人関係者の協力に感謝しており、これは『雪中炭を送る(困った時に手を差し延べる)』の行為と言える。」とした感謝の言葉を述べた。

このとき初めて、中華民国(台湾)政府は、古寧頭戦役に参加した日本軍と日本の協力など重要な機密を正式に公開した。

日本濃州堂は最大限の敬意を込め、歴史が塵と化すことを許さないという姿勢で、この「復刻武将」シリーズの「根本 博」の宝刀をお出しします!

また、中茎の表と裏には手彫りの「取義捨身吾所尊・偲 根本 博 濃州堂」という珍しい銘文があり、コレクションの価値がとても高いです!