凡收藏「復刻武將 富田直亮」,本公司將隨刀附上由野嶋 剛著作的「ラスト・バタリオン 蒋介石と日本軍人たち 」名將傳記一本。

富田 直亮(1899年7月27日-1979年4月26日),生於日本熊本縣,日本軍人,大日本帝國陸軍士官學校32期、日本陸軍大學校39期。曾任大日本帝國陸軍少將,第二次世界大戰期間曾任朝鮮軍參謀、第23軍參謀長等職。

第二次大戰結束後,因蔣介石透徹的知道中國共產黨馬克思主義的邪惡謊言與殺人本質,並深知這不只是一國之內戰而已、乃是「共產國際」赤化世界的第一步,必將長久危害人類文明的永續發展,以達成奴役全世界人民的終極目的。

因此在台灣最危險的時候、富田直亮冒著生命危險受蔣介石秘密的邀約至台灣國擔任「日本軍事顧問團」、既「白團」之團長,富田直亮並取一個中文化名為白鴻亮。白團一名就來自他化名的姓氏,意為以正義純白來對抗中國共匪暴力團「污星赤魔」的偽政權!

由於當時台日之間沒有航線,白團初期的成員,也得靠偷渡才前來台灣。武將富田直亮一直秘密的防衛台灣20年,奮力抵抗中國共匪的侵略、在台二十年間密訓國軍策畫反攻中國大陸計劃。

後來雖然由於國際情勢發展,中華民國六十一年中日斷交,富田直亮(白鴻亮)仍本於武士道精神繼續為台灣獻策,蔣介石感謝他數十年來的功績,特別拔擢為陸軍上將,此為中華民國首位獲得此榮銜的外籍人士!

直至1969年白團結束援助台灣為止,83名前日軍將校居然在台灣培育了9千多名中華民國的優秀國軍軍官,將大日本帝國軍人最優秀的陸海空的戰鬥技能留在台灣永續發展!

白團的發起人是前日本駐華派遣軍司令 岡村寧次 大將,也就是1945年9月9日,在南京向何應欽將軍呈遞降書的日本代表。

因為 岡村寧次 大將極力支援中國停戰事務,何應欽向岡村示以敬意,岡村寧次也在南京軍事法庭被判無罪。由於蔣介石長戰後採取以德報怨政策,讓岡村寧次 大將等人深為感佩。

另一方面,戰後駐華日軍多半恪守命令,只向中央軍投降繳械,堅決不向共匪赤魔賊寇投降,也讓蔣介石十分肯定。因此在國民黨政府內戰失敗時,岡村寧次 大將決定召集舊部「捨命報恩」,協助台灣的蔣介石對抗中國共匪!

由於岡村寧次 大將本人身分敏感,無法出境,因此由富田直亮少將擔任團長。

「白團」轉戰台灣的任務以兵學教官為主,先後來華的日本將校總計83人,全部都取了中文名字,包括陸海空三軍,大部分是校級軍官。政府以他們為核心,開設「圓山軍官訓練團」與「實踐學社」,栽培訓練無數的的國軍軍官,成為蔣介石政權抵抗中國共匪賊寇的重要力量。

1952年末白團成立「黨政軍聯合作戰研究班」,訓練含參謀總長 郝柏村 在內的國民黨高級幹部長達10年以上。

1958年八二三砲戰爆發白團親赴前線,其訓練之將領也發揮作用,最終轉危為安。蔣介石曾表示「金門戰地指揮⋯⋯全部都是由富田直亮所領導的白團訓練出身」。

蔣介石對白團的訓練相當信任,經由日本軍事顧問在台訓練了約六千多名軍官。當時甚至有非「實踐學社」出身者,不得晉升師長級以上軍職的不成文規定。

“白團”的軍事思想影響台灣國之國軍很深,曾參與設計台灣國之國軍防衞計劃,並建立至今仍在實施的後備動員體系等。

白團在台所實施的義務役徵兵制、預官制度、提議建立金門馬祖的地下碉堡防衛作戰、設置成功嶺、總動員法、規劃「國光計劃」、石牌「實踐學社」教導國民黨軍官,建立令人聞之喪膽的日式的刺槍術(銃劍道)、單兵戰鬥教練之準則等,影響國民黨軍事教育長達40年。

台灣國之國軍歷年受過富田直亮訓練的軍官總數達兩萬人以上,包括胡璉、郝柏村、蔣緯國、黎玉璽等知名將領在內。

郝柏村先生也曾在受 富田直亮 訓練的時候、記錄了當時國民黨軍隊的情形,比如他曾經寫下「營長的領導能力等於日軍剛上任的少尉,連長等於軍曹,排長的程度只有伍長…」等文字記錄,亦可知富田團長治軍之嚴謹!

1972年蔣介石把富田直亮晉升為中華民國陸軍上將,1979年有情有義的富田直亮返回日本休假,在東京猝逝,享年80歲。

士為知己者而死,臨終前他要求妻子將自己的骨灰分為兩半,一半置於日本,另一半則安放在台灣新北市樹林區的海明禪寺。

此乃表明他對台灣這塊土地的認同,也是大日本帝國軍人白團團長武將 富田直亮 在20 世紀時所表現出來最後的武士道精神之展現!

後記

1950年5月21日,蔣中正在圓山以「軍官訓練團成立之意義」發表演說:我為什麼要請日本教官富田直亮少將?

過去我們費了許多精神和金錢,請過德國、英國、美國、蘇聯教官,幾乎集中全力在辦理軍事教育,仍然免不了這樣的徹底失敗,原因何在?

東西方的物質、精神條件迵不相同,我們沒有注意培養自動負責,誓死達成任務的精神,反而沾染他們個人自由主義和優厚享受的心理。

當前國際上沒有真正幫助我們的國家,但是日本人作戰的經驗、能力優良,尤其日本軍人視死如歸、協同一致的精神,除了德國外,世界上沒有其他國家可以相比。

在我們國家存亡危急,到處受人欺凌,被人侮辱的時候,日本教官肯冒險來台,以一片至誠,幫助我們反共抗俄,教授我們作戰的精神和技巧,和我們同甘苦,共患難,同仇敵愾,同舟共濟,我更應該特別優禮他們,尊敬他們。

蔣介石本人也常去白團聽課,他尤其非常愛聽富田直亮先生所上的課。1950年9月底10月初,蔣介石在聽富田直亮講授武士道,經常在日記中記錄詳細的體會,諸如:「富田直亮總教官的武士道課程,對學生而言有如照亮黑暗的一道光芒,令人深感欣慰。」

富田直亮 合金刀 打刀拵

本作品為日本濃州堂以萬分虔敬之心,隆重奉上之復刻武將系列之 富田直亮 寶刀。亦於刀身上手工雕入「七生人間報國恩 武士道富田直亮」的珍貴銘文,極具收藏價值!祈「英霊は台湾を守り続けた」!

富田直亮日語原文介紹

富田直亮(1899年(明治32年)7月27日 - 1979年(昭和54年)4月26日)は、熊本県出身、日本の陸軍軍人。陸士32期。陸大39期。大日本帝国陸軍少将、第二次世界大戦には朝鮮軍参謀、第23軍参謀副長を務めた。

第二次世界大戦が終わった後、蒋介石は中国共産党のマルクス主義の邪悪な嘘吐きと殺人の本質を徹底的に分かり、これが単なる内戦ではなく、「コミンテルン」の世界再定義の第一歩であることを知ったのだ! 邪悪な共産主義の邪霊は、世界中の人々を奴隷にするという究極の目的を達成するために、人類の文明の持続的な発展を長年にを危うくする!

台湾が最も危険な時期に、富田は命を賭けて蒋介石から日本軍の軍事顧問団「白団」の団長として秘密裏に招かれ、白鴻亮という中国名を与えられた。

「白団」という名前は、彼の中国姓氏からきているのだそうである。それは、中国の暴力的な共産主義暴力集団「赤魔」の傀儡政権に対して、正義と純粋さをもって戦うということである。

当時、台湾と日本を結ぶ航路がなかったため、白団初期のメンバーは台湾に不法入国しなければならなかった。 中国共産党の侵略から台湾を守り、武将である富田直亮は20年間台湾で軍隊を訓練し、中国への反撃を計画した。

1991年、国際情勢により日本と台湾が国交断絶になった後も、富田直亮(白鴻亮)は武士道の精神を持って台湾の軍事戦略に貢献し続けた。蒋介石は、その数十年にわたる功績を認め、富田直亮を陸軍大将に昇格させた。富田直亮は中華民国でこの称号を得た最初の外国人である。

1969年に白団が台湾への援助を終了するまで、83名の元陸軍士官学校は台湾で9000人も以上の中華民国の優秀な将校を訓練し、大日本帝国の軍隊の最高の陸海空戦闘技術を台湾に残して発展を遂げたのだ!

白団は、1945年9月9日に南京で何応欽将軍に降伏勧告を行った日本代表である元台湾派遣軍司令官、岡村寧次大将によって創設された。何応欽は中国の停戦を支持した岡村大将に敬意を表すために、南京軍事法廷で無罪放免された。蒋介石は戦後に「悪をもって善をなす」政策を行ったため、岡村提督らも高く評価されていた。

一方、戦後、中国に駐在していた日本軍のほとんどは命令を守り、中央軍にだけ降伏し、共産党や赤魔には絶対に降伏しなかった。蒋介石はそれにも高く評価していた。そのため、岡村寧次大将は、国民党政府が内戦に敗れたとき、昔の軍隊を集めて「命を捨てて恩を報じる」ことを決意し、台湾で中国共産党と戦う蒋介石を助けることにした!しかし、岡村寧次大将の立場が微妙で、出国することができなかったため、富田直亮少将は団長となった。

「白団」が台湾に来た任務は、主に軍事教練であった。陸海空軍を含め83人の日本将校が中国名を付けて台湾に来た。その中、ほとんどは大佐であった。政府はそれらの将校を中心に、「圓山士官訓練団」と「実務講習会」を設立し、国家の士官をたくさん養成し、蒋介石政権において中国共産党や匪賊と戦う重要な戦力となった。

1952年末、白団は「党・政・軍合同作戦研究クラス」を設置し、10年以上にわたって国民党参謀総長の郝柏村を含む高等幹部たちを訓練した。

1958年8月23日に開戦した金門砲戦において、白団は最前線に立ち、訓練された将校たちの活躍で危険を安全なものに変えてたのである。蒋介石は「金門の戦場では、すべての指揮官が富田直亮率いる白団から出身した」と語っている。蒋介石は白団の訓練をかなり信頼し、日本の軍事顧問団を通じて台湾で約6千名の将校を育成した。当時は、「実務講習会」出身者以外は師団長以上に昇進させてはいけないという不文律があったほどだ。

「白団」は軍事の思想において台湾国軍に大きな影響を与え、台湾国軍の防衛計画の作成に参加し、現在も続いている予備動員制度を確立した。

台湾では、白団は義務徴兵制度、予備役将校 制度、金門・馬祖への地下壕設置の提案、成功嶺の設置、総動員法の制定、「国光計画」の立案、石牌「実務講習会」で国民党将校の指導、恐るべき日本式銃剣術(銃剣道)の確立、単騎戦闘指導要領を制定し、40年間にわたって国民党の軍事教育に影響を及ぼしていたのである。

富田直亮が長年にわたって訓練した台湾の国軍は胡璉、郝柏村、蒋緯国、黎玉璽などの名将を含む2万人以上である。

郝柏村は、富田直亮の訓練を受けた当時における国民党軍の状況も記録していた。 例えば、「大隊長の統率力は就任したばかりの日本陸軍の少尉に相当し、中隊長は軍曹に相当し、小隊長は伍長に相当する・・・」と書いており、富田団長がいかに厳しく軍隊を統率していたかがわかる。

1972年、蒋介石は富田を中華民国陸軍大将に昇進させた。1979年、休暇で帰国した富田は東京で急逝した(享年80歳)。

彼は理解してくれた友人のために命を犠牲した。富田は生前、妻に遺骨を日本と台湾の新北市樹林区にある海明禅寺に分骨するよう頼んでいた。それは、台湾という土地への帰属意識を示すものであり、武将の大日本帝国陸軍白団団長・富田直亮が20世紀最後に示した武士道精神の表れであった。

エピローグ:1950年5月21日、蒋中正は圓山で「将校訓練団が設置した意義」について、「なぜ日本人教官、富田直亮少将を招いたのか?」をテーマとして講演した。

「これまで、ドイツ、イギリス、アメリカ、ソ連の教官を雇い、軍事教育に注目し、多大な力と資金を費やしてきたが、いまだにまったく失敗を避けられない。それはなぜですか?

東洋と西洋の物質的、精神的条件が全く違うのに、自己責任や献身的な精神を育てるどころか、個人的自由主義や享受の悪弊に染めてしまった。

世界には本当に助けてくれる国はない。しかし、日本人は戦争に関して優れた経験と能力を持っており、特に日本軍隊の団結と連帯の精神は、ドイツしか比べることができないほどです。

我が国の生存が危ぶまれ、いじめや辱めを受け続けていた時代に、日本人の教官は危険を冒して台湾にきて、共産党やロシア人と戦い、戦争の魂と技術を教え、苦しみや憎しみを分かち合ってくれた。そのため、特に礼儀正しく、彼らを尊敬すべきです。」

蒋介石も白団の授業によく出席し、特に富田直亮の授業は気に入っていたようである。

1950年9月末から10月初めにかけて、蒋介石は富田直亮から武士道の授業を聞いていた。「総教官・富田直亮の武士道授業は、生徒にとって闇を照らす光のようで、とても喜んで安心した」と、日記に詳しい体験を書いてある。

日本濃州堂が精魂込めてお届けする復刻武将シリーズの富田直亮の刀を差し上げています。

また、刀身には手彫りで「七生人間報国恩 武士道富田直亮」と貴重な銘が刻まれており、コレクションの価値はとても高いです!「英霊は台湾を守り続けた」を祈っています!

また、復刻武将・富田直亮の刀を収蔵する方は、「ラスト・バタリオン 蒋介石と日本軍人たち 」(野嶋剛著)という名将伝ををお付けします。